[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

今回(2001年11月20日現在)
も頂いた文章を掲載させていただきます。
別に手抜きをしているわけではありませんが
(それもあるか?…)
東京在住のkeiyaさんに頂いたこの文章も
非常に興味深い内容です。
前回の「ニューヨークより」に続き
今回の「東京より」。
タイトルの“言葉遊び”的な意味を含め
読者の皆様方にとってもなかなかに
興味深い内容であろう、と
管理人(村井)の独断と偏見により
掲載させていただきました。
筆者を簡単にご紹介させていただきますと
すでに当hp.において
数回ご紹介させていただいております
詩人、朗読家、パフォーマーであり
「言葉研究家」でもあるkeiyaさんです。
(詳しくはこちら
http://www.on.rim.or.jp/~keiya
をご参照ください)
尚、文章中に現在の状況と
多少食い違いを感じさせられる部分も
やや見受けられますが
冒頭にも記されているように
この文章は 2001年9月27日に
書き下ろされています。
ゆえに、その感覚の時間的ずれは
なにぶんよろしくご了承ください。
それでは…。
27/09/2001 「狂牛病とテロ」
今日の朝日新聞の「声」欄に 牛馬の力強さは草食からくるのに、なぜ草食動物の
彼らに肉食させるのかと投書があった。 家畜に何を食べさせるのか、長い歴史の中で当然の常識ができています。狂牛病の因
となったという肉骨粉について、青天のへきれきでした。牛に牛を食べさせることが、
自然の理に逆らうことを肝に銘じるべきだと思います。天地の理に逆行することへの
結果として、狂牛病は生まれるべくして生まれたものと考えたい。この意見は理にかなっている、と私は思う。ただ、現在、科学、医療が発達して、
いったい何をもって「天地の理」とするのかは、意見がわれるところだと思う。脳死
のこと、不妊治療のこと、クローン人間のこと、科学はどんどんやりたいことを広げ
ている。
でもこの件に関していうと、
1「牛に牛を食べさせるなんて、違うなー」という感覚は、どこへいってしまったん
だろうか?
2 あえてそれでもそうした理由が安いから。
はっきりいって、2の方が1に勝ってしまう。その方が経済的なんだ、という理由が
全てに勝ってしまうことを特質としてあげていいのではないだろうか。
酪農家の方は「うちの牛じゃねえ」と言ったそうだけど、そのとき、なんでそんな
こと言うかな、と思った。でも次の瞬間はそうか、と思った。可哀想だなと思った。
結局泣いているのは、生産者なんじゃないかな。牛を毎日面倒見て、乳をしぼって
さ、もしくは肉の出来具合いを見て、よかれと思ってあげた飼料のせいで、足がた
たなくなって、ぼろぼろ、よろよろとくずれおちる牛達を見て、自分の牛達だよ、そ
れが、そして報道機関に写真取られたり、報道されて、責められて、、、、。いちば
ん、いちばん、つらいんじゃないのかな。
わたしは基本的に、大学教授が大丈夫と言っていたり、厚生省が大丈夫と言ってい
ても、それって「薬害エイズ」の時もそうじゃなかったっけ?と思うのです。わたし
の意見を「理屈が通ってない」と言う人も「わけ、わかんない」と言う人もいるかも
しれないけど、でもさ、いくら理屈が通っても間違っていることもあるんじゃない?
その人が何を言うかではなく、何をしているのかを見るのが大事だと思う。
「薬害エイズ」事件の時の厚生省の役人と龍平君のテレビ対談で、「君にわかるか
な?」と大人づらして優しい表情と声をだした。
「君には子どもで事情がわからないかもしれないけど、大人の世界には大人の世界
の事情があるんだよね。大人なんだよぼくは。」式に、龍平君に答えた場面で、怒り心頭、異常にむかついた。言っていることより
もしていることを見る考え方から言うと、「じゃあ、おじさんはさ、自分の子どもが
血友病だったら、その子に その製品を打った?」ということなんです。よくあるじゃ
ないですか。目には目を、式だとこれも困るけど、言ってることよりもしていること
を見る。
こんなふうに農薬の被害がでたり、農法が地球に優しくとなる前の話ですが、 農家の人が言われた通
りに農薬を散布するんだけど「なんか、嫌だな−」と思って、 自分とこで食べる分は、形が悪くてもいいから、別
に作っていた。農薬散布をほとん どしないで作っていた。みたいな話。
わたしは農家の人の話に納得するんですね。そうか、と妙に納得がいく。この 「なんか、嫌だな−」って感触、感覚、直感といってもいいんですかね、これって、
先ほどの1番の感覚、「牛に牛を食べさせるなんて、違うなー」という感覚と共通
し てませんか? ですよね? この感覚は、きっといのちの感覚なんだと思う。
だから、理屈だけが通って、「自分の子どもだったら」式の想像力や愛情がないと
ころでは、働かない。
雪印の社長が「俺は寝てないんだ」と言ったこと。阿部被告が「年寄りをいじめて、、」式の発言をしたことの裏には、自分が仕事で
していたことは仕事だから、いのちの感覚も、愛情もなくって、自分の睡眠とか、年
齢とか、「自分様」のことになると、いのちの感覚も、愛情も働く。 その一滴でも、仕事での責任にいけばいいのに、いかない。
きっと、お金のためだけに動いていたからではないだろうか? その方が経済的なんだ、という理由が全てに勝ってしまうことを現代の事件の特質と
してあげていいのではないだろうか。
じゃあ、何のために仕事をするのか?」 今どき、理想のため、という人もいないだろう。「貧乏父さん、金持ち父さん」を
読んだ。でも金持ちになるためには四六時中、そのためだけに自分の時間を使ってい
る。四六時中、意識をそのために使う。時間を費やす。
わたしにとっては、お金の他にひとつ、財産だと思っているものがある。それは与
えられた時間だ。この世にいる時間だ。理屈はわからないけれど、この世に生きてい
る時間を与えられたもの、貴重なものとして、実感している。美しいものをみたり、
したいことを思いっきりして、出会うべき人に出会って、この手でしっかりと自分の
人生を生きたいと思う。
今すぐ死ぬとは思わないけれど、それもあるとは思ってる。いつかこの世を去ると
わかってる。そのときに金もうけだけ考えて生きましたっていうのは、ちと悲しい。
自分の行動を考える時、何かをするとき、「安いから」が理由、ということが問題
なんだと思う。大問題なんだと思う。「金でものごと考える」のは、欲望だと思うけ
ど、じゃあなんでそんなにお金が欲しいんだろう?
私もそのことを自分の頭で考えなくちゃと思う。だって、お金ってやっぱりなけれ
ば生きていかれない、と思うから。
ところが! お金があったとしても、いのちがなければ生きていかれない。あったりまえですよ
ね。でもお金ばっかの人は自分が死ぬことを忘れているんじゃないかなと思う。
死んじゃったら、なんにももってけない。お金どころか、髪の毛いっぽん、歯いっ
ぽん持っていかれないんだよね、と思う。だいたい死んだ後で、どんな世界なのか、
わからないじゃない。どんな価値観がその世界を作っているのか、わからないじゃな
い。
つまりさ、この世でどんなに金持ちでえらくって、みんなに一目置かれてたとして
も、それだけが世界全ての価値観だとは私にはどうも、思えない。興味がない。
私はちなみに、死んだら無 だとは思えない。そんなバカなことないと思うし、感
じる。死は究極のリセットだと言う人もいるけど、私は逆。死は究極の集大成だと思
う。
今までやったこと、思ったこと、考えたこと、そういうものはちゃんとどこかにた
まっていて、戻ってくる。
今までの自分のしたこと、思想、価値観の集大成なんだと思う。でもその集大成の
仕方はわかんない。いろいろな人は色々なことを言っているけれど、そこにはその人
独自の欲望がまじった価値観が垣間見える。あの世って言うところは、そんなけちな
欲望をいっさいがっさい超えた価値観が支配しているんじゃないか? そう感じる。
死後、自分がどうなるのかは、生きていくうちに納得がいくような感じがする。でも人が死ぬ
ことを、つまり、自分が死ぬ存在で、ついでに言えば、ずーーっとここ にいたんじゃなく、生まれて「来た」存在ということを思い出すと(ふだんは忘れて
る)なんか気持ちが違ってくる。考え方が違ってくる。
いのちの感覚が戻ってくる。
さまざまな事件を見ても、庭に咲く花、庭に散る花ひとつを見ないで一日を過ごす
自分を見ても、いのちの感覚が、危機感にさらされているように感じる。
2 アメリカと言う呪縛
アメリカのテロ事件、あの日は家にいて、家族の「なんか、凄いことがあったらし
いよ」という声でチャンネルを変えました。飛行機がビルに突っ込む映像がくり返し、くり返し、流れました。数日間、なんど見たことでしょうか?
みなさんはあの時どこにいて、何をしていたんでしょう?
あのとき、画面を見ていて、実感と言うもの、感触がつかみ難かったです。ハリウッ
ド映画をみるようで、なかなか実感がわきませんでした。
数日後ある週刊誌で ふっとんだ手首の写真をみました。右手でした。皮膚がちり
ちりとまくれあがり、中から飛び出した赤いもの、そして手そのもの。指もある。全
部ある。ひとつひとつに爪までついている。精巧なできものとは思えない、リアルさ
がありました。ふっとんだ手首。今回のテロ事件がどんなものだったのか、改めて実
感できました。身震いするような、感覚が伝わってきました。
テロは許せない。 けれどもその後の合衆国の対応、発言を見ていると、これは何と何の闘いなのか、疑問がわきます。
正義ってなんですか?
限りない正義ってあるんですか?
そんなことば、言っちゃうんですか?
誰に対して何に対して、限りない正義なんですか?
本当にテロへの闘いなのか?
それとも宗教戦争なのか?
それとも価値観の闘いになるのか?
さまざまな合衆国の役人、軍人の合衆国一辺倒の意見を読むと、自由の国アメリカの
不自由な盲点はここにあるなと思う。 アメリカ万歳の思考が多すぎる。 テロはわるい。でもその報復として、なぜ人殺しをするのか?
には答えていない。
私の思考よりも早く、騒ぎのように波紋となって、譲れない、譲れないと言い合
いが続いているように、ことは戦争に突っ込んでいきました。原因がなにで、どこに
あるのか、テロ事件は確かに原因です。でもその原因の背景を語っていないまま、報
復が始まりました。そして戦争開始となりました。
もしも「われわれはテロに反対する。しかし武力によっては報復しない。」とアメ
リカという国が言っていたとしたら、この国のスピリットは本当に、感心されただろ
う。
>ふたつのくに目次に戻る<